初めて書名を知ったとき、私は小学生だった。
同じ著者による『さようなら、ギャングたち』の最後のページには
著者の略年譜が掲載されていた。
その一番最後、すなわち最新の欄に「ジョン・レノン対火星人を執筆中」とあった。
ビートルズを愛する母のおかげで、ジョン・レノンのことは知っていたので、
なんでまた、ジョン・レノンが火星人と対決するのだろうと不思議に思ったものだ。
そして、この書名はきっと冗談に違いないと思った。
中学生になって、『ジョン・レノン対火星人』が文庫になっているのを本屋で見つけた。
セーラー服を着た私は、早速それを小遣いで買った。
小説の中では、中3の理科1分野で学ぶ「右ねじの法則」が引用されており、
学校でまさにその単元を学んでいた私は、あまりのタイムリーさに驚いたものだ。
閑話休題。
それ以来何度か再読しているこの小説の一冊なのだが、
なぜかここ10年ぐらいは読んでいなかった。
一昨日、たまたま天袋の箱の中から発掘したので、
10年ぶりに再読することにした。
私の記憶が確かならば、金子光晴の名もこの本で知った筈だったから。
小学生からは多少知識の増えた目で読むと、いろいろな発見があるものだ。
当時は日常でありながらも奇妙な描写に夢中だったが、
今になってようやくストーリーがつかめたような気がする。
深淵によって目にするビジョンのすべてが死体で埋め尽くされている「すばらしい日本の戦争」、
その彼を救うべく「わたし」と「T・O(テータム・オニール)」は尽力する。
「わたし」の恋人のパパゲーノ、T・Oの同僚の「石野真子ちゃん」も手伝う。
主にT・Oの愛ある“レッスン”によって、
「すばらしい日本の戦争」は深淵か徐々に逃れられるようになり、
“死体を見なくてもすむ時間”は増えていく。
しかし、物語は悲しい結末を迎える。
正直にいうと、前著の『さようなら、ギャングたち』よりは荒い印象(結末は特にそう)で、
完成度としてもそちらの方がいいだろう。
ただ、冒頭から後半にかけての流れるような展開と、
随所に挟まれる“チャーミング”な挿話は、とても高橋源一郎らしく魅力的だと思う。
その“チャーミング”具合の感じ方は、
15歳だろうが32歳だろうが、私の中では変わっていなかった。素直に嬉しい。
ちなみに金子光晴は“いちごちゃん”に同情される姿で冒頭に現れる。
また、金子光晴本人ではないが、
“金子光晴がこれから書こうとしているハードボイルドなイエス・キリスト”は
横浜の山下公園で主人公と遭遇している。
今回気付いたのだが、高橋源一郎は一人称を「わたし」と平仮名で開いて表記していた。
一人称は単純なようでいて、作中にかなりの頻度で登場する言葉なので、
どのように表記するかは、実はかなり重要なものかもしれない。
『さようなら、ギャングたち』や『ペンギン村に陽は落ちて』を再読したくなった。
また、天袋から発掘されることが期待される。
