学生の頃、私の所属するデザイン専攻の学生は1学年60人ほどだった。
2回生(関西では学年を表すのに○回生という)までは学籍番号順に半分に分けて色々な分野のことを少しずつ学ぶ。1回生はデッサン、立体、デザイン。2回生からは映像、写真、版画・印刷、レタリング、などなど。
3回生になるとそれぞれ専門分野に分かれることになる。それまで30人1クラスだったのが、10〜20人のゼミ(=デザイン実習のクラス)に分かれる。ビジュアルアート&デザインに20人、プロダクトグラフィックデザインに20人、映像と写真にそれぞれ10人。この頃になると退学及び留年組が数人出ているので、実際の学生数は上記より少ないが。
私が所属していたのはビジュアルアート&デザインのゼミ。教授はタカ先生とツボ先生。両先生はA教室と呼んでいた。そう、通常のゼミは教授一人に学生10人なのだが、なぜか映像と写真以外の二つのゼミは、教授二人で学生20人の合体型ゼミだった。プロダクトグラフィックデザインにも、もちろん先生が二人いらした。
さて、私のゼミ《Aクラス》はよく言えば自主性を重んじる、悪く言えば野放し放任。そして先生達の個性も強烈なものだった。私はタカ先生もツボ先生も尊敬していたが、やはりゼミ長とも言えるタカ先生が大好きだった。
3回生の時、演劇部でポスター作りやらメイクやらに没頭していた私は、はっきり言ってヤバい状況だった。午前中の専門講義はおろか、午後の実習にもロクに出席せず、一人暮らしの狭いコーポと部室を往復する毎日だった。
その日は、そろそろやばいなあと思いつつも、荷物を取りに行ったりする関係で実習室の前をうろついていた(美術学部生の特権として、一回生の時から個人ロッカーを支給されるのだ)。とっくに実習の時間は終了しており、実習室に残っていたのは雑談しているクラスメート数人だけだった。
「なあ、今日の課題なんやったん?」
「あ、有ちん。今日のはビデオ見てそのイメージから絵を描くってやつやで」
「ビデオ!?それ見んとやるのって無理?」
「うーん、無理やろなあ。紙も先生が用意しはったヤツやし」
それはさすがに捏造できないなと困りながら廊下に出ると、そこには研究室から出て来たタカ先生がいらした。
「ゆぅちゃぁ〜ん、最近実習来てへんやんか。あかんなぁ」
生粋の京都弁で、笑顔だが眉をしかめるタカ先生。申し訳なく思う私。タカ先生に必死で言い訳した。学校には毎日、それこそ日曜でも来ていること。演劇部の公演が目前に迫っていること。自分が宣伝美術とメイクを担当していること。などなど。
「ほぅか〜。そんなら学校には来てるねんな」
すかさず縦に首を降り続ける私。
「学校に来てるのは文化を作ることやから、それやったらかまへん」
そして、翌日に実習室に来るよう時間指定まで出して、先生は去って行った。本来は実習が無い日だが、私のために実習の用意をしてくださると言うのだ。
翌日、もちろん私は準備万端で実習室へ行った。タカ先生がわざわざ別の部屋から持って来てくれたビデオモニターには、ジョルジュ・ドンのボレロが映し出されていた。渡されたのは五線譜を模した紙と、課題説明のレジュメだった。
「ええか?僕はずっとおられへんけど時間になったら来るからな。課題仕上げときや」
課題はジョルジュ・ドンを見て、音楽を聞いて、それをフィンガーペイントで五線譜に表現するというものだった。実は正直その課題意図もどんなモノを仕上げたかも覚えていない。どうせ、きちんとレクチャーを聞く機会を逃していたのだから、恐らくは課題意図も汲めずにイマイチなモノを仕上げたのだろう。それでも、課題を回収に来た先生は「やることが大事」と言って課題を受理してくれた。
まあ、一事が万事そんな具合で、《Aクラス》の学生はそれぞれに好き勝手なことをやりつつも、ちゃんと単位をもらえていたように思う。先生達は意思を見せる学生には寛容だった筈だ(少なくとも私の知る限りは)。生意気にもスランプに陥った学生にも、それを責めることなく「まあ、がんばりや」と見守ってくれたものだった。