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自分という存在は作品と同化できるのか

8:00pm過ぎに寝たせいか、きっちり8時間後の3:00amに目覚めた。

すっきりした頭でぽつぽつ仕事中。
BGMは「VirginRadio」が不調なので、ひさびさに普通の音楽。 未エンコだったミュージカル『CATS』のCDをエンコしつつ聞く。
ちなみにオリジナルロンドンキャスト版で、サラ・ブライトマンがグリザベラ役のものだ。

小学生の時に劇団四季の『CATS』を見たのが最初で、以降18歳〜21歳の間にニューロンドンシアター@ロンドンで合計3回ぐらい観たような。18歳の時はすごく感動したんだけど、21歳の時はなんだか子供っぽく感じて残念だった記憶がある。

でも、毎回CATSを見る度に感じたことがひとつだけ。
「舞台の上に立てれば、自分が作品(もしくはその一部)になれる」

CATSは基本的にストーリーは無くて、ダンスと歌で構成されるミュージカルであり、出演する「ダンサー/歌手/役者」は、当然ながら踊って歌えて猫の演技ができる人たちだけ。舞台装置や衣装や楽曲や伴奏の力もすごいが、出演者はそれらの魅力を最大限に活かす力を持つ人たちなのだ。出演者がヘボかったら、なんぼ周囲がスゴくてもあかんでしょ?

舞台装置を作っても、衣装をデザインしても、楽曲を作曲しても、音楽を演奏しても、それは「作品を作ってる」ことにはなれど、自分自身の存在が作品になれない

日本の劇団四季と異なり、ロンドンのミュージカルは生演奏が原則なので、そういう意味ではオーケストラも作品の一部といえるかもしれない。が、狭義では「演奏をする」=「楽器を使って音/音楽を生み出す」だと思うので、自分自身が作品と同化しているとはいえない(余談だが、日本を拠点にしているカンパニーで、唯一生オケを使用している劇団がある。どこあろう、宝塚歌劇団なのです。結構知られてない事実でしょ?)。

ミュージカル/芝居/ダンス等で舞台に立てる人は、自分自信が作品の一部として存在できる。なんと羨ましいことなのだろう。浅ましい私としては、ついつい羨んでしまう。しかも頻繁に。

もともと、ジャンルを問わず音楽のパフォーマンスを見る度に、「ライブパフォーマンスできる点で、音楽は美術に勝ってる!悔しい!」と見当違いの嫉妬を抱いていたが、舞台芸術の出演者に至っては烈火のごとく激しく嫉妬の炎を燃やす。あぁ、憎たらしい。

シュルレアリスムの巨匠サルバドール・ダリ先生に、こんなエピソードがある。
幼きダリは通学路の前方に、ヴァイオリンケースを持った少年を発見する。そこですかさず、彼のヴァイオリンを奪い、メチャクチャに踏みつぶして壊してしまうのだ。もちろん、先生に叱られるわけだが、そこでのダリ先生の言い分がかっこいい。

「美術が音楽よりも勝れていることを物理的に示したのです」

ダリ先生の気持ちはわかるような気がする。多分、ダリ先生も音楽への嫉妬があったのではないだろうか。私だって、『CATS』の舞台に石投げ込みたかったもの。……ウソです。素直に感動していた。降参の白旗を振っていた。嫉妬で攻撃した時点で負けです。

たまにこんな話題をKにもちかける度に、比較することがナンセンスだと一蹴されてしまう。理性の面では自分でもアホらしいと思うのだが、でも!でも!感情は許せないのだ。

いつかは、自己評価で『CATS』と並べるような作品(デザインでも絵でも漫画でも)を作りたいものだ。自分が作品にはなれないけど、作品は自分の一部でもあるわけだから。

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2004年10月28日 08:11に投稿されたエントリーのページです。

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